この物語を“わたしたちあなたたち”のために歌うよ、
そしてこの大地の精霊と、祖先たちを呼び覚ます。

この物語は・・・だれも語りたがらない物語、
なぜなら私たちはみんな、ダメだから。

これは、私たちにはみんなダメなところがあるという話だから。

私たちはいつでも、ダメなところと闘っていると思うんだ・・・

|おはなしのあらすじ|
ギリシャ劇「王女メディア」を原作とし、オーストラリア先住作家が2005年に書いた作品である。
沙漠の厳しい環境で生きるアボリジニーの娘メディアは、先祖の土地を売り払い、都会で育ったアボリジニーの青年ジェイソンと故郷を出る。
しかし二人の間には既に男の子があり、三人が都会で生きていくことは大変なことであった。
夫ジェイソンは働きたがらず、他に女を作ってメディアを裏切ってしまう。
一家はアボリジニーであるために差別をうけ、都会では自分たちの誇りを見失いそうになってしまう。
ジェイソンは、都会に住んだ父からうけた暴力の記憶を忘れられないでいる。
誇り高くアボリジニーとして生きることを願うメディアの愛が、ジェイソンを苦しめる。
新たな夢の実現を願いながらも、二人は、暴力の連鎖が…我が子に対しても続いていくかもしれないという予感に襲われる。

第18回本公演「BLACK MEDEA」

■金沢公演
2014年
2/22(土)20:00
2/23(日)20:00
2/24(月)20:00
小劇場An.Studioにて

■石巻公演
2014年
3/1(土)18:30
石巻市仮設開成団地内開成ささえあい拠点センターにて

原作:ウェズリー・イノック
翻訳/佐和田敬司
演出:岡井直道
舞 指導:山下きよみ
舞台監督:本庄亮
美術:橋本舞子
制作:村上和子

出演:
月原豊
下條世津子
風李一成(KAZARI@DRIVE)
澤田春菜
イージー卓(音響操作とギター演奏)


再演

海外公演「BLACK MEDEA」

■金沢公演
2014年
8/14(木)20:00
8/15(金)20:00
小劇場An.Studioにて

■韓国公演
2014年
9/12(金)
春川市ポムネ劇場にて

原作:ウェズリー・イノック
翻訳/佐和田敬司
演出:岡井直道
舞 指導:山下きよみ
舞台監督:本庄亮
映像:嬉野智裕
美術:橋本舞子、藤本匠

出演:
風李一成(KAZARI@DRIVE)
澤田春菜
下條世津子
ののじろうー
藤本匠(ギター奏者)

新聞報道 北陸中日新聞 2014年2月20日(木曜日)

韓国公演ドキュメンタリー映像

■写真家・ハヤシハジメ撮影 金沢公演(2月)の記録

幕開き

ギター イージーTAKU

カーテンコール

<石巻公演 雑感>岡井 直道(劇団アンゲルス)

“精霊”が教えてくれる。・・・そんなことを感じさせてくれた旅公演だった。

日頃、自分の感覚がどんどん俗にまみれ、その鈍さは取り返しがつかない状態になってしまっているのではないかという感覚がある。

演劇をするものにとって、“都市化=生活が便利で快適=善” ということとは裏腹な感覚が内側あるように思う。
今ある生活を良しとすることと、演劇を創る者が、今あるこの世界のなかにこの快適さとは違う “新鮮な生” をみつけだし舞台化することとは、別のことなのだ・・・。

1960年代後半この国で、“連帯を求めて孤立を恐れず”というフレーズが、時代の精神を表していた。1950年代半ばにイギリスから始まった若者達の “反逆” は、またたく間に世界の若者たちの共感を得て広がっていった。
それは,便利で快適な “画一性” に対する反逆だったと言ってよい。
世界は,“人類のシンポ” のために、わかりやすく単一なあり方を必要としていた。
それは,“快適” の名の下、“清潔で単純で聖なる姿” となって現れて来た。
この “進歩” に対して若者達の反逆は、直接的で徹底的で過激であった。
それは、生きるものが “失ってはならないもの” を高く掲げ、再認識し、光り輝かせる、という本能的な行為であったのだ。

演劇は舞台で “本物” を創りだし、観客に感動を与える・・・ことを目指すのだが、大概の場合、それは成功しない。
過剰になり、粉飾にまみれ、“孤立を恐れず、己を誇示する” ことになりかねない。この嘘くささは、今の自分のものなのだ・・・と思い知らされる。

今回の被災地公演は、現地主催者<まちづくりNPOげんき宮城研究所>の要請で始まった。被災から3年が経った石巻。そこの仮設住宅内の集会室が会場となる。
作品は任されたが、「本物の演劇を見せて欲しい」と言われた。

舞台仕込み前に、海岸線を南三陸町志津川に向かった。398号線で北上途中、多くの子供達の命が奪われた「大川小学校」と女性職員が津波情報を最後まで伝え続け亡くなったという「志津川町防災センター」に寄った。
両地ともに、車から降りると、わーっと強い風が吹きつけて来た。その風に巻き込まれ身を晒しながらそこに立つ。風が体を通り過ぎていく。細胞の中を風が通り抜けていく感じがした。いきなり目に涙があふれ出てくる。ちょっと戸惑いながらしばしその感覚に身を委ねた。
そのとき、これに似た体験を思い出した。15年ほど前にル-マニアのシビウ演劇祭に参加したときのことだ。会場として僕たちは山の上の古城を選んだ。初日は野外、2日目は城の広間。両日ともに芝居が始まると凄まじい風が吹き、会場はその渦に覆われた。それはかつて経験したことがないくらいすごい風で、そこに立っているのもやっとだった。
この城の庭にも広間の下にも、かつて郷土防衛のために闘い死んだ住人達が今もなお埋められたままにあるのだという。
“精霊”がやって来た・・・精霊達があらゆる方向から僕たちを囲み、通り抜け、揺さぶっている。精霊達が軽やかに力強く僕たちに交じって空中を縦横に踊り舞っている!
不思議な体験だったが、なんだか妙に嬉しくなったような記憶が残っている。

“BLACK MEDEA” は、仮設住宅内集会室で、観客数50人弱のたった1回の舞台だった。
原作はエウリピデスのギリシャ悲劇「王女メディア」。それをオーストラリアのアボリジニー作家ウェズリー・エノックが2005年に劇作したものだ。日本では,今回初めて僕たち<劇団アンゲルス>が舞台化したのだ。
カーテンコールで俳優達が客席にお辞儀をした時、突然「来てくれて、ありがとう!」という女性の声が会場に響いた。
終演後、初老の男女が私に近づいて来た。その女性が言った。「今朝、不思議なことがあったんですよ。私の家の周りは田んぼなんですが、なんだか騒がしいんです。田んぼを見てみますとなんとそこに数十羽の白鳥が舞い降りて来たのです。今まで一度もこんなことはなかったんですよ。初めてです。私はとっさに “再生が始まった!” と思いました。そして今夜この芝居を見ました。これは、“命の再生の話” ですね。私にはよくわかりました。本当にこの作品を上演してくれてありがとう! 今日は私にとって特別な日になりました。」
わたしは少々戸惑いながらも、とても素直な気持ちでこの言葉と二人の自然な在りように触れられたように思います。

精霊が、私の “魂の輝き” を引っ張りだしてくれている。
死んだもの達は生きているものたちの中に交じって、僕たちに “命の再生” を教えてくれている。

演劇の価値は、“頭脳で仮空されたもの” を “生身の命” で実現することにあると言って良いだろう。この至難な二つの分離を、粉飾と過剰で乗り切ってしまってはいけない。
舞台を創る僕たちも観客も、舞台に死者達が交じっていることを知った時、小賢しい日常から離れ “光り輝くもの” に身を委ねることがあるのだと思う。その刹那、そこに本物の感激が生まれることを知るのだ・・・
今回の石巻公演は,そのまれな体験だったように思っている。
(10,March,2014.演出家)


↓ 再演チラシ掲載コメント ↓

“いま”を創る

岡井直道

矛盾を生きる・・・そんな舞台を作り続けよう、と再び思っている。
現実社会では・・・解決なんて滅多に無いのに舞台では解決されてしまう。
周囲からその心地よさを求められているかのように思ってしまう。
日常では面倒で解決のつかないことが多くストレスがたまるから、せめて劇場ではシンプルで達成感のあるものを見たい! ということになっているらしい。

そんな暗黙の要求を満たすべく舞台を創るのか?
否・・・クソッタレ! である。

個人の力ではどうにもできにくいこの世の“いま”・・・
せめて、その矛盾を生き抜く力を探りたい! と思うのは真っ当なことなのだ。
己の力をつけないと、達成感など味わえないしストレスは無くならないのだ。
矛盾は矛盾として受け止め、時には肩すかしをやってのけ、するりと生き抜く・・・そんな力を手に入れるような舞台がいい!

矛盾のリセットは・・・神の為せる技なのだ。
人間界でのリセットは・・・死のイメージにつながる。
矛盾を生きることは、ごく自然なことなのだ。
そんな生には、苦痛と同時に喜びがある・・・というのが実感だ。

(Augast, 2014. 演出家)